覆水盆には返れない、こそ。

罹病して1年半も会社を休むと、いい加減気がついてしまうことがあって。

好きだったものを昔のように楽しむことはもうないんだなぁ、と。

 

実は会社を休む前から趣味などでノイズが走るその傾向はあって、

まず親に病的とまで言われたほど本の虫だったのに、まったく活字が読めなく(読まなく)なっていた。

もともと仕事で馬鹿みたいに目を使うので、なるべく酷使したくないなぁとか、そういう手綱捌きをしているからかなとも思ったけど、明らかに違う。

どうやら本を読む集中力が綺麗さっぱりなくなってしまったみたいだ。

休職直前は自覚はなかったけど、今考えると本当に恐ろしい変化で、

仕事始めたてあたりは年間100冊は活字を読んでいたし、読む速度もハリーポッターシリーズの上下巻とかの分量を1時間半で読んでたんですよ、きちんと精読で。

それがどうしたことか、仕事休む直前で読んだ本の数はほぼゼロになり、新聞のひとつの記事を理解するにもへたすりゃ一日かかることもざら。

活字を読むには、私の周囲に漂う集中力を体力と根気でかき集めて向き合わないと・・・某ゲーム風に言うと「決意で満たされ」なければ全くのお手上げ状態だ。

とはいえそんな状態の集中力はなけなしのハリボテ。

本がなくては生きてはいけない人間が、本がない方があらゆる力を消耗しないですんでしまう人間に早変わりしたのだ。

 

ではドラマや映画やアニメなどの鑑賞はどうだったか。

それらって、文字に比べると映像だし、音もあるし、ある意味でわかりやすい。

読書が作者の物語を読み手が脳内で想像・再現する必要性がある(それだってれっきとした醍醐味なのだけど)のに対して、

鑑賞は明らかに表現が展開されていて、こちらがつくり手の世界に簡単に飛び込める。

喜怒哀楽、美醜、希望に絶望。

自分の好みに当てはまってしまえば、ありとあらゆる表現のオンパレードに心地よく身を委ねることは、まごうことない幸せじゃないか!

いいぞ・・・きちんと娯楽を楽しんでいるぞ・・・読書はなくともまだいけるぞ・・・

なんぞと浸っているとふいに誰かが語りかけてくる。

「これあと時間どれぐらいかかる?」

え、え~~~~この物語の序破急の序とか破の部分でそんなこといちいち聞きます~~~???

もちろんこれは他者からそう聞かれているわけでなく、サッカー日本代表 本田圭佑選手に対するリトルホンダよろしく、みつの中のリトルみつが言っているのである。

リトルホンダはきちんとどの番号を背負うべきか、本人の意思を尊重し伝えるべく出現したのに、

リトルな自分はあとどれほどこの作品に付き合わなければいけないのか、という体力的懸念を主張してくるわけだ。

映画って意外と体力も精神力も必要になるから、罹病した自分が弱気になるのはまぁ分かる。

にしても、だ。

これが正直めっちゃ邪魔。

例えば、アメコミ二大巨頭のMARVELの濃密エンターテインメント、ヒーロー大集合アベンジャーズ インフィニティ・ウォーとか、映画のためなら自ら高度何千メートルから飛び降りる、スタントでは足を折ったが死なない男トム・クルーズがおくる痛快スパイアクションの最新作ミッション・インポッシブル フォールアウトとか。

どれもこれも好きで心の底から楽しんでるのに、リトルみつがいちいちあとどれ位で解放されるのか気にしてくる。

最近唯一気にしなかった作品はシアーシャ・ローナン主演の青春もの レディ・バードなんですが、これ95分というコンパクトな映画尺かつ、展開もジェットコースターというよりは、コーヒーカップなのでリトルな自分もそもそも出番がなかった。

リトルという存在のなにが問題かと言うと、物語に没入するのが困難だということ。

引用した挙句リトル、リトルと連呼したが、そうやって時間を気にする自分は、そんな小さな存在じゃない。

作品に没入したい自分はノイズとなった別の自分に引っ張られて、映画館そのものを俯瞰させられ過度に距離をとらされて、なんか眺めなきゃいけないのだ。なんか。

そんな状態だから、好き嫌い良い悪いってなかなか自信をもって言えなくて、むしろ自分のこの半透明な繭みたいなものでくるまった判断を毎度疑う羽目になった。

 

しんどい。

身体のこと、心のこと、そんな状況になってしまったということ。

みんなしんどいけど、これまで好きだったものが素直に楽しめなくなったという事実が1番殺傷能力が高い。

昔はドの鍵盤を叩いたらドの音が綺麗に出た、みたいに世の中のものとリンクしていたのに、今は調律もしていないから叩きにくくてさびた音が出ているみたいだ。

読書も特に映画も、単純な趣味でなく職業にしたいとすら思っていた(思っている)憧れの存在なのに、嗜むことすらままならないのは、

これ前世で何かやらかしたか?いや今世でやらかしたからこうなってしまったのだな・・・と無駄なネガティブ思考もしてしまうし、こうなってくると昔と今の自分は同じ存在なのかとかいうスワンプマン的な哲学すら発動してしまう。

 

けれども両親や友人やお医者様らと喋ったりなんなりして、なんとか復職にまでこぎつけて。

やっぱり本を読むには結構集中力を使うし、映画でもリトルみつはでてくるのだけれど、この状態だからこそほどほどに、だけれど永く楽しめるものに出会えれば御の字だな、と思えるようになれた。

趣味に愛を注ぐのは大切だけど、それは本当に自分を豊かにできるものなのか?自愛が足りているのか?冷静な判断はついてるのか?

あの健康だった頃の無茶がきくと思っていた自分は、たしかに頭の先から足の爪先までパンパンに何かが詰まっていた。

量も質なんでも広く深く、まるで暴食のごとく貪っていたのだけど、時間もお金も物理も有限なのに妥協も出来ないのはそりゃ無理がたたってしまう。

今必要なのは何も無いという瞬間や精神的なゆとりだ。

昔のようにはもう楽しめないけど、1つずつ拾い上げるようなのんびりした楽しみ方もわるくないもんで。

 

これからは、水をあけた器に"好き"を余白と一緒に入れ込んでいく。